
サイズ:A5、52ページ 内容:銀河英雄伝説に舞台を借りた二次創作小説。ラインハルトとキルヒアイス、幼年学校生徒時代のエピソード中編。 『黎明編』のカストロプ動乱と『策謀編』のアウグスト二世の下りの二度、原作で有角犬<ホーンヘッド>が登場する。カストロプ動乱では、単に財務省から派遣された徴税官にマクシミリアンが有角犬をけしかけて追い払う程度のシーンだったが、アウグスト二世のところでは明確に食人の性癖を持つ猛獣として描かれている。 『黎明編』で、この獣が人間のDNA操作によって生み出されたと書かれているが、ふと、大帝ルドルフの『遺伝子への盲信』と、有角犬を生み出したDNA操作技術とがどう折り合っていたのか、という疑問である。 ルドルフは明らかに、『現時点においての支配層・富裕層は優秀な遺伝子のしからしむるところであり、その優秀さは今後も継承され、不変である』と信じていたと思われる。その一方で、DNA操作はそうした『不変』であるべき遺伝子を改編し、優秀でなかったものを優秀に変えてしまう可能性を孕んだ技術である。 こうしたことを考えている内にできあがったのが今回の物語である。ラインハルトとキルヒアイスの幼年学校時代を描いてみたいとの思いもあって、猫屋版銀英伝本編で『落日編』の時代まで進んでしまった時計を、二人が十五才の時代にまで巻き戻してみた。
幼年学校
「むぅ……」 呻きとも唸りともつかない声は、隣の席に座を占めている赤毛の少年の耳にだけ届いた。 「ラインハルトさま?」 周囲に素早く目をやって、誰の視線も彼らに注がれていないのを確認すると、ジークフリード・キルヒアイスは、ポケットにしのばせていた黒パンをそっと隣席に滑らせた。 「……ダンケ」 初夏の日差しが水晶を透過して閃くような微笑が応えた。人類社会の中で……などという発想は、まだこの時のキルヒアイスにはない。この幼年学校生徒たちの中で唯一、彼にだけ向けられる笑顔は、滲み入った胸の裡を心地よく暖めてくれる。 視界の端で、大皿をキルヒアイスの前のそれに移し替える。煌めくような黄金の光を帯びた動きが、風のように早かった。 瞬時に大盛り状態になった大皿の中身に、キルヒアイスはスプーンを手にした手の動きを速めた。一五歳の健康な少年の食欲が、みるみる皿の中身を減らしていくのに、こちらは黒パンをちぎって口に運んでいる黄金色の髪の少年は、感嘆と嫌悪を相半ばする視線を向けていた。 「よくそんなに素早く食べられるな……!」 「美味しいですよ、自宅<うち>でも週に一回は、夕食にこれが出ましたから」 「姉上は絶対にこんな料理は出さなかったぞ。こんな……」 「熱くて辛くて、全然甘みも何にもない料理なんて……ですか?」 もう何度目のやりとりになるのかも思い出せない。後に続くはずの台詞を先回りしてかっさらい、口元を紙ナプキンで拭うと、キルヒアイスは小さく微笑って、目の前の料理に視線を落とした。 湯気を立てる飯米<ゲニュンステーター・ライス>の白い丘の表面の半ばを覆った、香ばしい香りを立てる黄褐色のソース。本来なら、煮込まれているはずの肉やジャガイモの塊はほとんどなく、あっても破片程度だったが、帝国の一般的平民家庭に育ったキルヒアイスにとっては、ありふれた食事だった。 そう、彼らの前だけでなく、広い食堂の中、思い思いのテーブルに席を占めた幼年学校生徒たちの前に供されているのは、いわゆる『カレーライス』だった。 その昔の地球時代、大洋を戦場とした軍隊、いわゆる海軍では一定周期でカレー料理を供して、海上で狂いがちな日時感覚の補正を図ったという。その真似でもあるまいが、ジークフリード・キルヒアイスと彼の金髪の親友が通う帝国軍幼年学校では、定期的にカレーライスが夕食のメニューを占めることになっていた。 「もう少し、肉を入れてくれると嬉しいんですけどね」 確かに、自宅で母が作ってくれたものに比べると、油っぽくて舌に絡みつく辛みが強いばかりの味だったが、それでも口にできないほどひどい代物ではない。安い食堂で、普通に出てくるレベルだ、とキルヒアイスは思う。 「……」 金髪の少年は、信じられないほどに整った美貌に似合わぬ、ぶんむくれた表情を浮かべたまま黒パンをかじり続ける。そうした姿であってさえも、造化の奇跡を思わせる端麗さは少しも損なわれていない。 そう、一〇歳のあの日からジークフリード・キルヒアイスにとって親友以上の存在、その半身とも言うべき、この少年……ラインハルト・フォン・ミューゼルは、カレー料理が苦手だったのだ。 姉であり、ミューゼル家の家庭内政の責任を一身に負っていたアンネローゼは、そんな弟の嗜好を熟知していたのかも知れない。自宅での食事では、スパイスの効いた食事は作らなかったようだった。あるいは、弟がもう少し年齢を重ねたところで、少しずつ、その味覚に香辛料をなじませていくつもりだったのかも、とキルヒアイスは思うのだ。 だが、そのアンネローゼは既に弟の食事を管理できる立場から拉し去られ、遠く新無憂宮<ノイエ・サンスーシ>の西苑<ヴェスト・ガルテン>に、皇帝の寵姫としての身を置く存在となってしまっている。 最初が最悪だった。 「なんだ、これは……?」 幼年学校の食堂で始めてカレーライスを目にした一〇歳のラインハルトは、それを毛嫌いするどころか、好奇心一杯に料理を見つめていたものだ。 熱くて辛いから、気をつけて食べるんだよ……とキルヒアイスが忠告の一言を放った時には遅かった。 好奇心と食欲の赴くままに、米とカレーソースを口一杯に頬張った瞬間だった。 「…… ……」 ラインハルトの表情が一変した。 頬張った食物を辺り一面に吹き散らすなどと言う無様なことだけは、プライドにかけて必死にこらえたラインハルトだったが、それも、異変に気付いたキルヒアイスが慌てて食堂から彼を連れ出していなかったら、どうなっていたか分からない。 他の生徒……鵜の目鷹の目で、ラインハルトの粗<あら>を探し続けているような貴族出身に、その後の幼年学校生活を通じて誹謗と侮辱のネタを提供する醜態は免れたが、しばらくの間、さすがのラインハルトも些か消沈した様子だった。勿論、そんな姿を目にしたのはキルヒアイスだけだったが。 「あれは一体何なんだ、あんな辛いものを人間が食べられるものなのか。その上に、どうしてあんなに熱いんだ」 この時、ラインハルトは口蓋粘膜の一部をやけどしてしまい、『熱いんだ』であるべき発音も『ろうひてあんらにあふいんら』となってしまっていたほどだった。 以来、ラインハルトにとって、カレー料理、就中<なかんずく>カレーライスはチェシャに続く食卓での仇敵となったのである。 とは言え、週に一度とは言わぬまでも二週に一度は食卓に供される、この料理に対して、ラインハルトは、まだ攻略の糸口すら見いだせていないのだ。 「まだ、良いと思って下さい」 育ち盛りの少年達向けに、量だけはたっぷりと用意されたサイドメニュー……サラダ、山盛りのポテトとザワークラウト……を口に運びながら、キルヒアイスはさらに苦笑する。 「これで一緒にチェシャのサラダでも出てきたらどうするんです」 「嫌なことを言うな」 さすがにサラダは黙々と口に運んでいた金髪の少年は、描いたように形の良い眉を、鋭角に歪ませた。 「チェシャにしても、このカレーってやつにしても、なんでこんなものが……」 「でも、軍人になったら、チェシャもカレーも普通に出てくるかも知れませんよ。嫌いだから食べないでは済まないと思いますけど」 「……」 俺が軍の頂点に立ったら、カレーとチェシャを食事に出すことを禁じてやる……普通ならそんな言葉が返ってくるところだが、金髪の少年の反応は違っていた。 「……そう……だな。何とかしなきゃならないことは分かってる」 黒パンの最後の一口を飲み込み、サラダを平らげて、ラインハルトはちょっと情けなさそうな顔になった。 「いつまでもお前に頼ってばかりもいられないしな」 「いえ、ラインハルトさまのお役に立てるなら……」 厨房からパンをくすねてくるくらい、なんでもありません。その言葉はさすがに咽喉の奥に押し込むことにした。 ただ、そうでなくとも圭角の立ちすぎるラインハルトである。食事抜きの処罰を受けることもしばしばで、そうしたときのための食糧を密かに確保しておくのは、キルヒアイスにとっての神聖な義務の一つだったのだ。 「……この話はもうやめよう」 「ええ……ところで、次の週末のことですが……」 「最終検定のことか?」 両目が蒼氷色の刃の光を帯びた。 彼ら二人が幼年学校の通常教程以外、主に士官学校での幾つかの課程を履修していることは、過去にも何度か触れてきた。ここのところ、彼らが睡眠時間をも削って取り組んでいるのが、地上車運転技術と、初級車両整備資格である。 「いずれ、戦場に出たところで周囲は敵ばかりだろう。いざというときに車も動かせないし、故障した車両を修理もできないのでは、身を守るどころじゃない」 それがラインハルトの意見であり、キルヒアイスが全面的に同意するところだった。 後者は既に履修を終えて最終試験も受験、ラインハルトなどは自信満々で『あんなもの、合格できない方がおかしい』などと豪語している。キルヒアイスの方は、『確実にできたのは五割、どっちか分からないのは三割、あと二割はダメ』というところで、合格の確率は五分五分というところだろう。 一方、前者である。 こちらは実技教程がほぼ終わり、あとは路上での実技検定が残っている状態だった。 この検定に合格し、地上車運転資格が与えられたとしても、一八歳になるまで、一般道での運転資格は凍結される。ただし、戦場ではこの限りではない。 「部屋で話しましょう。ここは耳が多すぎます」 周囲のテーブルで、何人かがちらちらと自分たちに視線を走らせている様子が、キルヒアイスの脳裏に小さく警告灯を点滅させた。 ラインハルトが頷くのを確認し、キルヒアイスは食事のピッチを更に上げた。 ★☆★ 「……こんなに走るのか?」 表示された地図の上に、白くうねうねとした曲線が描かれている。起点は士官学校ではなく、帝都から南西方面へ大きく離れた丘陵地帯の一角、帝国陸戦隊のフュッセン駐屯地がある。 フュッセン駐屯地を出て、さらに南西方向へ向かう。その後、逆時計回りに大きく円を描いて、南側から駐屯地へ戻ってくるコースである。 「楽に一〇〇キロ余り、ありますね」 普通の地上車運転資格試験ではあり得ない距離だが、戦地では、まったく初めての地域で、初年兵が何百キロも移動しなければならない事態も生じる……そんな説明を、ラインハルトは胡散臭げに見つめていた。 「それに……」 キルヒアイスの指がコースの一点を指して止まる。遠くフロイデン山系の山稜から南東に長く伸びた山稜、その末端をなす山岳地帯である。白いラインは山岳地帯の中を縫うようにして複雑な曲線を描いて延びていた。 「こんな距離を、正規の資格も持たない人間に走らせて問題はないのか?」 「大半は、陸戦隊専用の訓練道路ですから、一般の車両はほとんど入ってきません。ただ……」 キルヒアイスの指先が少し動く。幹線道路が途切れ、一〇キロ近くにわたって一般道が続く。周囲一帯がホーエンフュッセンという名の集落であり、集落に接して何らかの施設らしい、かなり広大な敷地を持った建物の所在が記されている。 「生物学<ビオロギーシェ・>研究<フォルシュングス>共同体<ゲマインシャフト>の研究施設。研究内容は……開示されていません」 『アルブレヒツベルガー研究開発センター』なる名称が表示されたが、それ以上にラインハルトの興味を惹くことはなかった。むしろ、訝しさにラインハルトが眉を動かしたのは経路だった。ホーエンフュッセン集落の中央にある帝国政府地方監察局支所で通過の確認を受けることになっているが、そこまでの経路が、わざとのように入り組んだ、複雑極まる図形を描いているのだ。 「ここは、一般道じゃないか?」 「交通制御システムでコントロールするのだそうです」 検定車が走るコースでは、一時的に他の車両の進入を禁止し、万一の事故に備える。士官学校での車両運転検定では毎度のことであり、それも山中の、一〇キロ強程度の距離に過ぎない。周辺の集落や施設に通じる他の道もあり、交通の停滞や途絶でクレームが出るということもない。それに、検定中止や事故の際の受験者収容のため、上空には常時ジェットヘリが待機することになっている。 「それは分かったが、なぜ、わざわざ、一般道を通らせるんだ?」 「軍専用道路だけでは能力の見定めにならないから……ではありませんか」 「ナビは使用を禁止されているのか?」 「それはありません。使って良いことになっています……というか、ナビ経由で検定車の動きを監視するそうですから、ナビを切る方が禁止されています」 「一般道路を走らせる技術を見るというなら、ナビを使わせないようにするべきじゃないのか……」 「それは、そうですが……過去の検定もすべて、このやり方で実施されているそうですから」 「……」 なお納得いかなげにしばらくコースを睨み付けていたラインハルトだったが、やがて諦めたように視線を地図から外した。 「やめだ。色々考えていてもしようがない。もし、これが罠だったとして……」 『罠』の一言が、キルヒアイスの眉も曇らせた。丸五年近い幼年学校生活。その間、偶然と思われぬような奇禍に出会い、危うく生命を落としかけた記憶が蘇ってきたのだ。それも一度や二度ではない。 「一度、二度なら偶然とも言えるが、三度なるとそうじゃないし、四度目、五度目があるとすれば誰かが俺たちを狙っていると言うことだ」 ラインハルトの分析とも言えぬ分析は、キルヒアイスにとっても異論を差し挟みようもないものだった。 「大貴族の連中に俺たちが危険だなどと見抜けるような切れる連中はいない……まだ、な」 言い止し、不快そうにラインハルトが飲み込んだ言葉を、キルヒアイスは正確に察することができた。彼らに危険性を見出すとすれば、それはまだ軍事・政治の世界においてではない。とすれば、残るのは……アンネローゼが黄金の鳥かごの虜囚たるを強いられている場所。新無憂宮<ノイエ・サンスーシ>の西苑<ヴェスト・ガルテン>。貴婦人の皮を被った魔女たちが、アンネローゼに嫉視の眼差しを向けつつ、彼女にとって唯一の係累であり、未来の後援者ともなり得る彼らの身辺に絹の手袋につつまれた毒手を伸ばしつつある。愉快さとはおよそ縁のない想像に、二人は顔を見合わせた。 「武器の携帯は許されない、な?」 「無論です」 士官学校の課程で射撃の訓練は受けていて、二人ともトップに近い成績は上げている。だが、彼らの身分は幼年学校生徒でしかない。日常での武装が許されるはずもないのだ。 頷き、ラインハルトは視線を転じた。作り付けのライティング・デスクの抽斗から、その中に収まっている小さな箱を取り出した。 最高級の象牙を、名人が精魂を込めて彫り上げたような手が伸びて、その先にダーツの矢<ダート>を拾い上げるのが、キルヒアイスの視界に映った。 繊細な外見に反して強靱な手首が閃き、空を切り裂いて飛んだ矢<ダート>が的の中央に突き立って、小さく震える。 幼年学校に入るにあたってラインハルトが自宅から持ち込んだものはほとんど何もないと言っていい。唯一に近い例外が、このダーツのセットだった。と言って、ラインハルトがゲームに長じているわけでもないのだ。 確かに矢<ダート>の投擲は実に正確で、ほとんど狙ったとおりのエリアに的中させることができるし、通常のゲームの倍近い距離であっても、ラインハルトの手から放たれた矢は、見事に的の中央を穿ってキルヒアイスを感嘆させた。 「凄いな、どんな風にやれば良いんだい? ルールは?」 問うたキルヒアイスに、しかし、ラインハルトは肩を竦めるだけだった。 「これってゲームだったのか……ルール? ルールなんてあるのか? 知らないな」 ラインハルトの両親のどちらかの所持品……おそらくは母親の遺品なのではないか。キルヒアイスはそう思っている。ラインハルトが父親の所持品を身近におくはずもないし、ましてや、それを使ってみようなどと思うはずもなかったから。 「キルヒアイス……」 数度にわたって、小さな矢の軌跡で自身と的との間の空間を切り裂いたあと、ラインハルトが視線を転じたとき、キルヒアイスは既に彼の意図を察していた。 「ええ」 頷いたときには、既にその長身が椅子を蹴るようにしてたち上がっている。『敵』が『罠』という饗応を用意してくれているというのであれば、こちらもそれなりのドレスコードを遵守すべきというものだろう。 素早く書き出したリストを脳裏に思い浮かべ、キルヒアイスは部屋を後にする。後に続いたドアの開閉音は、ラインハルトがすべてをキルヒアイス一人に頼り切るつもりなど毛頭ないことを示していた。ラインハルトは言うだろう。これは俺たちの戦いなのだ……と。
検定
その日は朝から雲が低かった。気象予報は午後からの驟雨の来襲を予想していた。 ラインハルトたちが出発する時刻になると、空の様子は予報の的中を示し始めていた。フロイデン山系の空に暗く鉛色に垂れ込めた雨雲が急速に南東へ動き、フュッセン駐屯地周辺へ流れ込んでくる。先行する何台かの検定車が出発し、彼らの順番が回ってきたときには、暗色の雲から延びた薄く銀色を帯びた雨粒の流れは、地表を覆い始めていた。 ラインハルトたちにとって意外だったのは、一人ずつ別の検定車を与えられるはずだとの予測を裏切られたことだった。 「二人一緒に行くのですか?」 「そうだ」 指示を与えたのは、ここ何ヶ月か、運転技術教官として彼らを担当していた軍曹ではなかった。記章は同じ軍曹だが、肉の厚い無表情な巨漢は、二人の記憶のどのページにも記されていない。 「中間点で運転を交代し、戻ってこい。他の検定受検者も全員、このやり方で検定を受けている。この距離を一人ずつ、全コース走らせるほどの時間はない。このコースを半分、無事に走らせることができれば、少なくとも戦場での運転に必要な最低限度の技倆ありと認めるに十分だ」 死んだ魚の目のような眸が無機質な光を伴って動く。キルヒアイスは嫌な予感を覚えた。何となく、何事もなく無事に帰ってこられないのではないか、そんな気がしたのだ。 もちろん、予感が当たったとしてもむざむざと遭難するつもりや、あるいは仕掛けられているかも知れない罠に落ち込んで生命を落とすつもりもない。何と言っても彼はラインハルトと行を共にするのであり、共にある限り、彼らを陥れ得る者など、この宇宙に存在するはずもない。一五歳の少年にだけ可能な確信は、もう数年来、この赤毛の長身の少年にとっては絶対的な真理以外の何物でもなかった。 ★☆★ 「……この道で良いんだな、キルヒアイス」 「ええ、ナビもこのこのまま、道なりに真っ直ぐと指定しています」 運転席からの視界は既に零に近かった。漆黒に近いほどに鬱蒼と茂った針葉樹林帯を切り裂いてうねうねと続く道路には、たとえ晴天であったとしても直上から以外には日差しが入らない。まして、全天が濃い灰色の雲海に覆われ、低い雲の下端が樹海の頂点に触れるほどに低く垂れ込めている状態では、陽光など望むべくもなかった。 路面は、降りしきる大粒の雨に叩かれて白い飛沫に覆われ、さながら気化したドライアイスの雲のように白く靄っている。さなきだに暗色に転じた視界の中、銀色の雨脚と相俟って、あらゆるものの輪郭がぼうと滲むようにぼやけ、曖昧だった。 その中、運転席に座るラインハルトに、ナビの指示を読み取ったキルヒアイスがひっきりなしに声をかけ続け、彼らは定められたコースをなんとか走り抜こうとしていた。 天候が急速に悪化する中、先に危険を察したのは先に運転席に着いていたラインハルトだった。 「キルヒアイス、お前もナビを読んで声に出してくれ」 一瞬戸惑ったキルヒアイスだったが、直ぐにその意図を察した。 ナビの指示は運転席から十分読み取れるよう、車窓に表示されている。だが、この悪天候に加えて、ベテランのドライバーですら難渋するような難コースを、僅か一五歳の彼らが自力で走り抜けねばならないのだ。 「左です、左」 「……」 ラインハルトがブレーキを踏み込み、車は大きくテールをスライドさせながら急カーブを辛うじて回りきる。車体の一部でも路側を超えて道路外にはみ出せば、検定は中止され、エンジンが停止する。その場合は、駐屯地からヘリが出て、彼らを迎えに来る……ことになっていたが。 大きく息を継ぎ、汗を拭ったキルヒアイスの眸が研ぎ上げたサーベルを思わせて蒼かった。 「ここで検定中止判定されたとして、誰も迎えに来ない、ということもあり得ますね……やはり、仕組まれているんでしょうか?」 「分からない。検定が今日に決まったのはずっと前だし、こんな天候になるなんて誰も予想はできなかったはずだ」 「偶然?」 「それは無事に帰ってから考えよう」 ラインハルトが巧みにハンドルを操作し、今度は鮮やかに急カーブを回りきる。中間地点、軍専用道路が切れて、山中の集落を横切る一般道路に入るまで、あと少しだった。 「キルヒアイス……」 「ええ……」 ラインハルトが車を停めたのは、それから一〇分ほども走り続けた後のことだった。 まだ夕暮れまでには十分に時間のある時刻だったが、全く回復しないどころか悪化の一途をたどっている天候のせいで、周囲は夕暮れ時を思わせて暗い。 「ここか……?」 「ええ……」 ナビが、車窓に小さくフラッシュさせている矢印に、二人は顔を見合わせた。 陸戦隊専用道路から外れ、一般道に入ってしばらくした地点である。少なくともナビの表示は、この先数百メートル、チェスのボードのような矩形状に道路が交差する中を突っ切れば、この先、ホーエンフュッセン集落の中心部に続くはずの道だった。中間点として通過を義務づけられている帝国政府地方監察局支所もそこに置かれている。 「事前に確認した地図では、確かにこの先にそれらしい街区がありました。その意味で、間違いはないはずですが……この経路は本当に正しいんでしょうか?」 キルヒアイスが疑問を呈したのも当然だった。地図の上では、確かにこの先にもきちんと整備された道路が縦横に行き交っていることになっている。しかし、実際に彼らの視界に入っているのは、街灯の灯りすらなく、薄闇の中に黒々とした洞穴のように開いている、車一台が辛うじて往還できるかどうかも怪しいほどの細道でしかなかったのだ。道の左右には、ろくに剪定もされていないらしい木々の下枝や雑草の茂みが張り出し、それらに車体を撫でられずに通り過ぎるとすれば、使える道幅は車一台分が精一杯である。 さらに、路面もまた砂利道に変わっている。 「地方監察局ほどの政府機関が置かれている以上は……」 ちょっと言葉の選択に困ったらしい。ラインハルトは一瞬、顔をしかめた後に、『この辺りの中心街……のはずだろう』と続ける。 「よりによって、そんな街区につながる道が……これか?」 蒼氷色と青色の視線が交差し、互いが同じ思いを抱いていることを確認する。二人の頭の中で赤々と警告灯が明滅していた。 「ちょっと確認してきます」 言うなり、キルヒアイスは助手席を飛び出した。予め着込んでいた防水コートのフードに、既に豪雨と言っていい雨脚が叩きつけ、視界ばかりでなく聴覚までが麻痺したように遠くなる。 優れた方向感覚の助けで砂利道の入り口に辿り着く。しばらく蹲って周囲の気配に耳を澄ませたが無駄だった。豪雨と薄暮の闇が目と耳の感覚を奪い、併せて危険への皮膚感覚をも封じてしまっている。この山中にたった二人、ラインハルトと彼だけが取り残されているかのようだった。 サーチライトが、白い突き刺すような光の束で、あたりを一瞬、白昼の光に照らし上げる。危惧の響きを帯びたラインハルトの声が後ろからしたが、目に入るものすべてを記憶するかのように両目を瞠りながら、前後左右上下の風景を光の中に浮かび上がらせた。 その間、数秒ほどだっただろう。キルヒアイスは身を翻し、金髪の友人の待つ車内へ駆け戻った。 「無茶をするな、キルヒアイス!」 「申し訳ありません、ラインハルトさま……やっぱり変です。他に車の通った痕跡がありません」 検定に使われる車両はエアカーとしての走行機能も持っているが、検定中は車輪走行を義務づけられる。砂利道には車輪の痕跡はなく、山道じみた細道を左右から侵略している下枝や雑草類にも、踏みしだかれ、へし折られた形跡はなかったのだ。 「……とすると罠……だな」 「ナビに細工されていたのではないでしょうか。わざと誤った経路を通るように誘導される……というような」 「だが、他に選択肢はないな。この先に、目的地があることだけは確かだ。他の経路をたどろうとしても、それは検定の規定違反だ。明らかにナビに異常があると確認できない限り、迂回すれば、俺たちはこの検定に不合格と判断される」 「しかし、罠だとすれば、狙いはわたしたちを迂回させて、検定不合格にさせることではないのではありませんか」 「それも分かっている」 類いを絶する秀麗な容貌が、にわかに悪童の微笑に変わった。物わかりの悪い大人達に悪辣極まるいたずらを仕掛けようとしている一五歳の『悪ガキ』の表情に他ならなかったが、同時に、キルヒアイスにとっては眩いほどの覇気を帯びた若獅子の微笑に他ならない。 「罠に突っ込んでいけば、仕掛けてきた人間の正体も分かる……そうですね」 「そうだ。闇の中からナイフを突き出されたら避けづらい。相手が隠れいていることが分かれば、こっちにもそれなりの対応ってものが用意できる」 「分かりました」 頷き、キルヒアイスは襟を正した。 「行きましょう、ラインハルトさま」 二人が驚いたことに、ナビの示す道路地図自体は正確だった。チェッカーボードの目のように引かれた道路の配置は、僅かの狂いもなく、地図と一致していた。 「これを一致している……と言うなら、たしかにそうだが」 軍用車両ならではの頑丈な車体と強力なエンジンの力を借りて、ともすれば車窓の前に立ち塞がってくる木々の枝葉や、車高を超えて繁茂する雑草の叢をなぎ倒して進みながら、ラインハルトは小さく毒づく。確かに地図通りの道路は開かれているにしても、既にその路面の半ばは道路の敷設後に生え出でたと覚しい草木に覆われ、さらには今日のような豪雨で抉られ、崩れ窪んだ部分は、一つを油断すれば車輪を銜え込む天然の陥穽となりかねない。 前照灯の照明の中に一瞬浮かび上がる、そうした障碍を一瞬に見分け、咄嗟にハンドルを左右に振って、最悪の事態から逃れさせる……ラインハルトやキルヒアイスほどに優れた反射神経と完璧に連動する手足を持つ若者にして始めて可能な離れ業の連続だった。 「一体、何なんだ、この区画は……」 「ひょっとしたら、放棄された集落かも知れません」 「なんだって?」 弾みで前照灯が大きく左右や上下に振れたとき、確かに人工物としか思われない輪郭が浮かび上がる瞬間があるのだ。大きなものではない。せいぜい二階建ての、民家と覚しき影は、しかし、いずれも灯りをまとってはおらず、ただ黒々と薄暮の空を切り取っているだけだった。 「昔は……そこ、左です! ……放棄された集落か、そうでなかったら建設されかけて途中で中止された住宅地、かも。道路も……住宅地の生活道路として……」 「もっときちんと整備される予定だったのが、途中で……」 言いかけたラインハルトの言葉が宙に消える。 キルヒアイスの視界の中、微かな明かりの中ですら黄金色の光を纏うラインハルトの髪が大きく揺らぐのが見えた。いや、そうではない。彼自身の視界が大きく上下に揺さぶられ、そして、不意に襲ってきたのは、彼らにとって馴染みのある、ある感覚だった。 ラインハルトが声にならない叫びを上げ、その右手が目にもとまらぬ速さで動いて、エアカー走行モードへの切り替えレバーを叩き込む。車体後方の左側が白煙に包まれた。 「ラインハルトさま!」 「分かってる」 まったく何の予告もなく、左側の路面が消滅したのだ。崖崩れの後、補修されないままに放置されていたのかも知れないし、あるいはもっと直接的な悪意のしからしめる所だったのかも知れない。ほぼ道幅の三分の二が差し渡し十数メートルにわたって完全に消え失せていたのだ。 その下に、どの程度の深さの地溝が穿たれているのか、とっさには見て取れなかった。あるいはさしたる深さではなかったのかも知れない。足許を失う感覚……宇宙空間を想定した零<ぜろ>G訓練での経験。墜落の最初の感覚であることを察したラインハルトが、咄嗟にエアカー走行モードに切り替えていなければ……車体は完全にバランスを失い、車体左側を軸にして横転していたに違いない。 地上走行モードから、いきなり最大出力のエアカー走行モードに切り替えられたエンジンは、酷使に抗議するかのように甲高い悲鳴を上げ、突き飛ばされたように加速する。こちらも最大出力で噴射された左下面の姿勢制御噴射が車体を大きく跳ね上げ、右側に横転させかける。 「……」 咄嗟にラインハルトはハンドルを右に切る。切りながら、右の姿勢制御ノズルを吹かせ、そのまま右への旋回からスピンに入りそうになる車体を間一髪立て直した。 だが、それでも完全に姿勢を立て直すには余りにも路面の変化が急激すぎた。 「掴まれ、キルヒアイス!」 「はいっ!」 車窓一杯に黒い塊が膨れあがり、避ける暇もなく、二人の少年の乗る地上車は半ば宙に浮いたエアカー走行モードのまま、左右に不安定に揺れながら、その塊の真ん中に突っ込んでいった。 激しい衝撃と轟音。視界が上下にものすごい勢いで揺さぶられるのを感じた後、二人の意識は途切れた。 気絶していた時間はさして長くなかった。おそらくほんの一瞬だっただろう。 キルヒアイスが目を開くと、車窓は真っ黒な影に覆い尽くされており、車体は大きく後ろへ傾いた状態で停止していた。 「ラインハルト……さま?」 「俺は大丈夫だ」 ラインハルトもキルヒアイスとほぼ同時に我に返ったらしい。車の状態をチェックし、車体に大きな損傷がないことを確認している。 「エンジンに異常なし。制御系統、電装系、動力伝達系……いずれも損傷なし」 車体整備の課程を取っておいて良かったな……その一言はまるで冗談には響かなかった。また、キルヒアイスも冗談を返す気分からは数光年もかけ離れた思いだった。車道とは言えぬ山道、ゴーストタウンじみた廃屋群のただ中への誘導が、人為の悪意によるものでなくて何だというのか。 「外へ出ましょう、ラインハルトさま」 「そうだな、外の状況が不明だ。このまま中にいても、事態が良くなるってものじゃない」 「お気を付けて、足許が危ないと思います」 「分かってる。お前もな」 ドアを開放すると、依然として降り続く豪雨が彼らの頭上を叩く。 「ラインハルトさま!」 手許のサーチライトを一瞬だけ点灯させたキルヒアイスが、小さく、しかし、最大限の緊張を孕んだ声を投げた。 「……下は……崖です!」 車は、濃密なほどに生い茂った灌木の枝に突き刺さっていた。 一瞬、ラインハルトの容貌が苦々しさに歪んだのは、彼らが追い込まれた窮地への恐怖を示すものではなかった。 「やってくれるじゃないか」 「ええ。ですが、今は相手の巧妙さを誉めている場合ではないと思います」 二言三言、言葉が交換されて後、二人は直ちに行動に移った。『敵』がここに網を張っていたとしても、彼らが車ごと懸崖の下へ墜落し、そのまま行方不明になるという筋書きを描いていただろう。二人が生き延び、脱出することを想定していたとしても、この悪天候である。全天候型の装備をしていても、直ぐには動けまい。 左右のドアを開け放った二人の少年の手許から、細いワイヤが放たれ、近くの灌木の幹に絡みつく。しっかりと固定されたことを確認するや、まるで体重がない者のような身軽さで二人の身体が車から飛び離れていく。超小型だが強力なモーターがワイヤを巻き上げ、彼らを宙に舞わせたのだ。 数秒を経ずして、二人は道路脇の樹林の中に身を沈めていた。 「ラインハルトさま……」 囁き声とともに、キルヒアイスが指し示す先に目をやり、ラインハルトは眉を顰めた。 ほんの数分前まで彼らが乗っていた地上車は、車体前部をフロントウィンドーまでの灌木の茂みに突っ込み、収納する余裕のなかった前輪は辛うじて砂利道の路面に届いているが、車体の後ろ半分は宙に浮いていた。 「よく……墜ちなかったな……」 さすがにラインハルトの声も微かな緊張を孕んで響いた。宙に浮いた車体の後方、一メートル足らずの所からは地面がなかった。さっき車窓から一瞬、彼らの視界に入ったとおり、路面は完全に崩落し、切り立った懸崖へと落ち込んでいる。ラインハルトの操作が一瞬遅れていれば、そして、車体が灌木に突っ込み、微妙なバランスで突き刺さるという偶然がなければ、彼ら二人は車もろともに土砂崩れ痕の谷底への墜死を強いられていたに違いない。 「……!」 先にラインハルトが動いた。小さく鋭いスナップとともに小さな球体がその手を離れ、低い弾道を描いて砂利道の上を飛び、一〇数メートル彼方まで転がっていく。白兵戦で使う、囮<ヒー>熱源<トデコイ>。中に熱源が仕込まれており、赤外線暗視装置の視界では、人が走り抜けたように映るはずだった。 「……」 何も起こらない……と確認すると同時に、キルヒアイスは隠れていた茂みを飛び出す。間髪入れずに、薄闇の中でもそれと分かる黄金色の光が、箭のように動くのが見えた。 フルスプリントで走り続けること、二〇〇メートル余り。視線を見交わすと同時に、再び二人は道路脇の木立、生い茂った下生えの茂みに身を躍らせた。 「どうだ、キルヒアイス?」 「何も起きていません」 大きく息を吐きながら、キルヒアイスは超小型の双眼鏡で、地上車が停止したあたりを観察する。崩落し、地上車では墜落を免れないような山道に誘導されたことが罠なら、その成果の確認役がいるはずだった。 「俺なら、脱出する瞬間を狙って狙撃する」 とはラインハルトの意見だった。それを警戒しての囮<デコイ>弾であり、その後の全力ダッシュだったが、少なくとも二人の視界には確認役は登場していない。一五歳の少年二人とみて、敵が甘く見たのか、それとも更に辛辣な罠が用意されているのか、それはまだ判断しようもなかったが――囮<デコイ>弾を見抜かれていて、今、この瞬間にも彼らを狙撃の銃口が狙っているという可能性も捨てきれない。 ふと、キルヒアイスは空を見上げた。まだ日暮れ前とは信じられないほど空は暗く、雨粒もサイズを減じていない。長くは見上げていられず、キルヒアイスは直ぐにフードの中に顔を隠した。 「ヘリが来る様子はありませんね」 「この天気だ。ヘリを飛ばすにしても危険すぎる。こんな天気になるなんて、連中も予想してなかったはずだ。俺たちが事故ったことはナビ経由でもう知っているだろうし、天候が回復してから動き出しても遅くない……そう思っているだろう」 「ええ……では、行き先は決まりですね」 罠の仕掛け人が十分に慎重な性格なら、監視と後始末を担うジェットヘリが初動に遅れるリスクを予期し、地方監察局支所とやらに別働隊を配しているだろう。この別働隊が動き出す前に、彼らを急襲してその動きを止めれば、同時に脱出のための手段も手に入る。敵に時間を与えれば、与えるほど不利になる。 「こっちです」 コンパスと地図を確認したキルヒアイスが促した。 「どれくらいだ?」 「地図を信じるなら、あと二キロ余り……のはずです」